公式サイト:http://www.tetsugakutoai.com/
監督:イラン・デュラン・コーエン
脚本:シャンタル・ド・リュデール / エヴリーヌ・ピジエ
撮影:クリストフ・グライヨ
編集:ユーグ・オルデュナ
音楽:グレゴワール・エッツェル
美術:シャンタル・ギュリアーニ
衣装:シルヴィ・ド・セゴンザック
プロデューサー:ニコラ・トローブ
エグゼクティブプロデューサー:ソフィー・ラヴァール
(2006年 フランス 105分)
原題:Les Amants du Flore (カフェ・ド・フロール)
※ネタバレ含みます。
【ストーリー】
1929年、ソルボンヌ大学に通うシモーヌ・ド・ボーヴォワール(アナ・ムグラリス)は、
学内で天才と噂される有名人ジャン=ポール・サルトル(ロラン・ドイチェ)から話しかけられる。
サルトルはボーヴォワールの美しさと聡明さに一瞬にして恋に落ち「理想の女性だ」と宣言する。
はじめは警戒していたボーヴォワールも、サルトルの中に自分と似たものを見出し次第に打ち解け、
やがて二人は1級教員資格を目指して一緒に勉強をするようになる。
試験はサルトルが首席でボーヴォワールが次席、しかもボーヴォワールは歴代最年少での合格だった。
(公式サイトより転記させていただきました)
フランスでは、TVドラマとして制作された作品のようです。
そのせいなのかどうなのか、駆け足気味に物語が進んでいき、
二人の晩年に関してはテロップで説明されるだけという、やや消化不良気味な感じが残りました。
ソルボンヌ大学の図書室、ランプに灯された緑色の光が美しい光景から映画は始まります。
(現在のパリ大学の画像で、同じ形のランプを発見しました。昔と変わらないのがいいなぁ)
「脚本は事実に基づいて作られた」という監督のインタビューをそのまま受け取るとしたら、
ボーヴォワールはずいぶん忍耐強いというか、
サルトルに都合の良い「自由恋愛」に付き合ってきたんだなぁという印象です。
もちろん、サルトルも彼女に強い影響を受け学んだことは大きかったと想像できますが。
この時代の雰囲気を知らないと、なかなか共感するのは難しいという気もします。
「小市民云々」なんてブルジョワジーの中で育ったサルトルが言うと、高みの見物的発言に聴こえてしまうし。
ただ、明らかに変革が必要とされるこんな時代には、小市民的な枠に収まらない考えは必要だと思います。
こちとら労働者階級で小市民にもなれないんで、ちょっとヒガみも入ってるんですけどね。
私たちが今当たり前に享受している自由は、彼等のおかげだとも言えるし。
古き悪しき慣習を消し去るには、かなりのパワーがいりますもんねぇ。
ある時期を境にして、ボーヴォワールとサルトルは性的関係を持たなくなるようですが、
二人の関係はあまりにも親密で、“同志”とか“友情”などの言葉とも違う、
まさに“二人で一人”という気持ちだったんやろなぁと想像されます。
それでも、ボーヴォワールは何故サルトルの母親的役割(彼の好みの女性を斡旋しようとしたり)
まで担ったのか?全く共感できません。
「シャネル&ストラヴィンスキ」「ゲンスブールと女たち」のアナ・ムグラリスが
美化された(見た目的に)ボーヴォワールで、目の保養になりましたわ。その低音ヴォイスにも痺れます〜。
「頭が良いけど、理屈では割り切れない人間の感情を理解しようとしない」と
私が勝手に想像するサルトルの印象からして、ロラン・ドイチェが演じるサルトルの
全く冴えない小男ぶりは面白かったけど、男(オス)としての魅力の無い人物像を、
前面に出してしまってる気がしました。現実はどうだったんでしょうね。
女性解放の大きな力となったボーヴォワールだとしても、私生活では結局、
サルトルに刷り込まれた考えから抜け出すことができなかったのかなぁ、
また、理想のカップルとしてサルトルと共にフランスで得た名声も捨てるには
惜しかったんかなぁ等と想像してしまいます。
初めて「結婚したい」と思う相手と出会ったのなら、とりあえずしてみれば良いのに。。。。
ハジケて!みればいいのに。。。。または性を追求してみるのもいいのに。。。。
などと、凡人は思ってしまうのです。
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もはや↑需要が無いんでしょうか? 中古品しかない。。。
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個人的には↑こちらの方が面白そうで興味あります。
梅田ガーデンシネマにて鑑賞。